LOGINまるで別人のような幼なじみの仁を目の前にして、澪は落ち着かなかった。仁の父親の転勤で引っ越したとき、仁は小学六年生で、澪は小学四年生だった。ちょうど仁が中学生になるタイミングでの引っ越しで、それ以来会っていない。当時はお互いに連絡を取り合う手段などなかった。
幼いころから顔立ちは整っていたが、引き締まった頬、すっと通った鼻筋、形のよい唇が、整った顔立ちをつくっている。キリッとした意志の強そうな眉毛だけは昔と変わらない。
「初めまして。ダーマコードの高宮と申します」
仁が名刺を手に澪の前に立った。鍛えているのか、スーツの上からでもわかる引き締まった体だった。すらっと身長が高く、見上げるほどだった。ふわりとウッディ系の香水が鼻をくすぐる。
「は、初めまして……。グロウセオリーの朝倉と申します」
名刺を差し出す指先が震えていた。仁は澪の名刺を受け取り、じっとその小さな紙片を見つめて、親指でその表面を撫でた。顔を上げると、輝くような笑顔を澪に向けた。
「朝倉澪さん。素敵なお名前ですね」
その声は、ほんの少しだけ、低かった。さっき同僚たちに向けていた軽やかな調子とは、どこか違う。
「ありがとう……ございます」
あれ? 仁は気づいていない?
――あれだけ一緒に遊んだのに覚えていないの? 覚えてたのはあたしだけ?――。
そう考えると、胸の奥がじりっと火傷したように痛みが広がった。
澪の同僚たちは、仁から名刺を受け取ると顔を赤らめている。
「高宮さん、めちゃくちゃかっこいいじゃん!」
「誰よ、CEOが乗り込んできて、無理難題を押し付けるなんて言ってたの」
ああそうか。
背が高く眉目秀麗なのだから、これまで多くの女性と付き合ってきたのだろう。だから澪のことなど、十七年前の近所の幼なじみのことなど、すっかり忘れているのだろう。
――まあ、あたしみたいに美人でもなければかわいくない女なんて、忘れちゃうよね……。
澪の同僚たちから囲まれて、愛想よく会話している仁を見て、胸の奥がぎゅうっと縮んだ。あんな笑顔を向けられたら、女性は誰だって好きになってしまうだろう。
「高宮さんって、彼女いないんですかー?」
「いませんよ。仕事ばっかりなので」
軽口を返しながら、仁はからからと笑っている。誰にでも愛想がよくて、誰のことも特別扱いしない。きっとこういう人なのだ。
しかし澪は仁の横顔を見て、違和感を覚えた。顔は満面の笑みを浮かべているが、目が笑っていない。なにか、不満なことでもあるのだろうか。
そのとき、仁がこちらへ目を向けた。すぐに目が合ったことに驚いたのか、仁が目を見開く。けれどすぐに、ふわっとやさしい笑みを澪に向けた。
――あ、昔と変わらない笑顔……。
その笑顔に思わずどきりとする。
商談が始まった。仁は自社の商品「Onlyé」シリーズの説明をする。
「Onlyéのコンセプトは『あなたの肌が、あなただけの答えを知っている』です。市販の基礎化粧品ではなかなか自分の肌質にぴったり合うものを見つけるのが難しい」
ゆっくりと話しながら、会議室内に座っているひとりひとりと目を合わせるように顔を向けていく。その様子を見るだけで、こうしたプレゼンを何度も経験してきたのだとわかる。
「そしてこのブランド名『Onlyé』は、『唯一の、あなたへ』という意味です。乾燥しやすいのに敏感肌だったり、脂っぽいのにかさつく。そんな矛盾を抱えた『あなただけの肌』に『あなただけの処方』を届けたい」
力強くその言葉を言い切った仁は、自分の手がけるブランドに自信を持っていることがありありと見てとれた。仁の説明を聞いて、澪の胸が高鳴った。
乾燥しやすいのに敏感肌とはまさに澪の肌質だった。市販の化粧品では自分に合うものがないから、手作りの化粧品を作っているのだ。
――まさか、仁はあたしの肌質を知ってるの?
一瞬そんな考えが頭をよぎったが、その考えを振り払った。そんなはずなどない。十七年も会っていないのだから、仁が澪の肌質を知るはずなどない。ただの偶然だ。
そんな自分勝手な考えにほとほと呆れた。仁は澪のことを覚えていないのだから、そんなはずがないのに。
初回の商談が終わった。
まだOnlyéを販売すると決まったわけではないが、上司もこのブランドに価値があると思っているようだった。
グロウセオリーとダーマコードの担当者で懇親会が開催された。会社近くのスペインバル。ここは魚介料理がとてもおいしく、澪もお気に入りのバルだった。
澪の上司が乾杯の挨拶をする。
「ダーマコードさん、今後ともよろしくお願いします」
「乾杯!」
グラスを掲げ乾杯をすると、懇親会が穏やかに始まった。両社の社員はお互いに酒を酌み交わしながら談笑していた。
澪は他人に話しかけられれば応えるが、自分から話しかけにいく性格ではない。スパークリングワインを飲み干すと、次は白ワインを頼んだ。運ばれてきたワインをひと口飲む。辛口で魚介料理と相性がいい。目の前のピンチョスをつまみながら白ワインを口にした。
そのとき、「きゃははは」と楽しそうな女性たちの笑い声が聞こえて、澪は声のするほうへ目を向けた。グロウセオリーの女性社員に囲まれて仁が楽しそうな顔をしている。
「高宮さん、連絡先教えてください!」
「私にも!」
女性たちがみんな、自分のスマホを手に、仁に連絡先の交換をお願いしていた。その光景を目にした澪の胸に、苦い痛みがじわりと広がった。
すると、澪のスマホが震えた。澪は仁から目を逸らし、スマホに目を向けた。画面には花音からのメッセージが表示されていた。
震える指でメッセージをタップすると、そこには結婚式の招待状の写真が貼り付けられていた。「黒川直哉」と「藤崎花音」と書かれた名前の外側を大きなハートが覆っている。それを目にしただけで、視野がぐらりと揺らいだ。
さらに、その下に表示されているメッセージを目にして澪は愕然とした。
『澪、友人として結婚式でスピーチしてね』
――は?
なぜ、さも当然のようにそんなことを頼んでくるのか。澪は花音の神経を疑った。
友人? 人の婚約者を奪っておいて、よくそんなことが言えたものだ。
かっと頭に血がのぼり、指先が小刻みに震えた。胃の奥から苦いものがせり上がってくる。澪は奥歯を噛みしめた。スマホを握る手の関節が白く浮かぶ。
目の前のワイングラスを手荒に掴み、中身を一気にあおった。目の前に置いてあったワインボトルに手を伸ばし、手酌でワインを注いでグラスを満たす。
幸い、懇親会に参加しているほとんどの人は仁の周りに集まっていて、澪のことを気にする人はいなかった。グラスを空けては満たすのを繰り返し、気づけばワインを一本空けてしまっていた。
昨日の夜、直哉から婚約を解消されて、ほとんど眠れなかった。寝不足と疲れから、一気に酔いが回ってきた。
澪は席を立った。ガタン、と椅子が音を立てた。
「ちょっと、お手洗いに行ってきます……」
一歩踏みだすと、よろめいた。随分酔っているようだ。
壁を伝いながらトイレに向かうと、後ろから同僚の声が聞こえた。
「あー。朝倉さん、随分荒れてるね」
「ねー」
そして仁の声が聞こえる。
「朝倉さん、どうかなさったんですか?」
「昨日の夜、婚約者に婚約を解消されたらしいんですよ。しかも、親友から寝取られたらしくて。笑っちゃいますよね」
ぷぷぷ、と口を押さえて笑う声が聞こえる。
「しかも、来週結婚式をするそうですよ。そんなに急に結婚するなんて、よっぽどその人のことが好きなんでしょうね」
その声を聞きながら、澪は唇を噛んだ。社内での噂だけならまだ許せる。けれど、社外の人間、しかも仁にそんなことを言う必要など無いではないか。
――もう、どうでもいいや。
おぼつかない足で、トイレへと急いだ。
*
ガタン、と大きな音が聞こえて、仁は音のするほうへ目を向けた。すると澪がよろよろと立ち上がった。どうやらトイレに行くらしい。
澪の同僚から、婚約破棄されたことを聞いた。
仁は椅子の背もたれに身を預けた。腕を組み、澪の背中を見つめた。
グラスの中の氷が、からんと小さく鳴った。
澪は提案書をクリアファイルに入れ、バッグにしまった。「澪、それ、いつ上に出すんだ?」 出勤の準備をしている澪に、仁が声をかけた。澪はバッグを肩にかけながら答えた。「できるだけ早いほうがいいと思ってる。だから、今日、上司に相談してみるつもり」「そうか。がんばれ。でも、無理はするなよ」 仁は、澪のほおに右手を添えた。澪は、その手にそっとほおをすり寄せた。 仁の大きな手に包まれるだけで、なぜだか安心する。「いってらっしゃい」 仁が澪の額に、ちゅっ、とキスを落とした。澪は目を細めて、仁を見上げた。「いってきます」 仁にほほえみかけて、玄関を出た。背後でドアが閉まる音がする。 その音が耳に届くと、澪は背筋をぴんと伸ばした。顎を引き、まっすぐ前を向いて、エレベーターホールへ向かった。 会社に着くと、澪は提案書をバッグから出して、デスクに伏せて置いた。 ――大丈夫。あの人なら、きっとわかってくれる。 澪をコラボの担当に抜擢してくれたのは、今の上司だった。上司は、澪の仕事をいつもいちばん近くで評価してくれている。 昨夜、提案書の最後のページに書いた上司の名前を見て、胸がひやりとしたのは、きっと気のせいだ。 始業後、上司のほうに目を向けると、忙しそうにしている様子はなかった。こういうことは、早いほうがいい。澪は提案書を手に、上司のデスクへ向かった。「例の件で、ご相談があるのですが」「わかりました。では、会議室へ行きましょうか」 上司は立ちあがると、小さな会議室へ向かった。澪もそのあとについていった。 会議室に入ると、上司に椅子を勧められた。澪は「失礼します」と小さく言って、腰を下ろした。ぎしっと、椅子がきしむ。天井の蛍光灯が、パチンと音を立てた。「それで? 結論は出たの?」「はい。こちらを、ご確認いただけますか」 澪はクリアファイルから提案書を取りだして、上司の前に差しだした。
ドアをノックしたが、しばらく返事がなかった。けれど、なかに仁がいることはわかっている。 澪はもう一度ノックしようと、拳を握りしめた。その手を上げた瞬間、ドアがそっと開いた。「……仁」「おかえり、澪」 仁の顔は、ひどくやつれていた。目の下には、くまがくっきりと浮かんでいる。ラボで寝泊まりしていても、きちんと眠れてはいなかったのだろう。「ただいま。……おかえり、仁」 たった数日離れていただけなのに、妙に気まずい。目を合わせられずにいると、仁が口を開いた。「リビングで話そうか」 澪は、小さくうなずいた。 ソファに並んで座っても、しばらくはどちらも口を開かなかった。 ――このままじゃ、だめだ。 澪は、仁のほうへ体ごと向きなおった。「この前は、ごめん。言いすぎた」 澪は、仁に頭を下げた。仁がせっかく澪のためを思って提案してくれたことを、澪はすべてはねつけてしまったのだ。仁が怒っても当然だった。 仁は澪の肩に手を添えて、そっと頭を上げさせた。目が合うと、仁は口もとをゆるめた。「いや、俺のほうこそ、ごめん。澪がこれまで必死にがんばってきたことを、全部なかったことにするような言い方になってた」 そう言って、仁は眉を下げた。 ――やっぱり、思ったことは言葉にしないと伝わらないんだ。 仁の顔を見ていると、ほっとして体から力が抜けた。気づかないうちに、ずっと肩がこわばっていたらしい。 力が抜けると、澪はようやくここへ来た目的を思い出した。仁に謝りたかっただけではない。 澪はバッグからクリアファイルを取りだした。なかには、A4の書類が三枚入っている。 澪は書類を抜きだすと、ローテーブルの上に置いた。 それを見て、仁は目を見開いた。「……提案書?」「うん。あたしなりにいろいろ調べて、考えてみたの。読んでみて」
あの日から、仁は家に帰ってこなくなった。 真壁のメールにあったとおり、ラボに簡易ベッドを入れ、そこで寝泊まりしているのだろう。 ひとりきりの部屋で数日を過ごすうちに、澪の頭も少しずつ冷えてきた。 仁は、澪を守ろうとして、仁なりに考えてくれたのだ。そのことは、わかっている。 けれど、仁に用意してもらった道を、ただ歩くのは嫌だった。自分の力で、なんとかしたい。「じゃあ、澪ちゃんは三つめを見つけないとね」 奈央の言葉が、脳裏によみがえった。 そうだ。与えられた道ではなく、自分で道を切りひらきたいのなら、三つめを見つけるしかない。 回答期限は、刻一刻と近づいている。 澪は、ダイニングテーブルの向かいにある仁の席を見つめた。 仁も自分も納得できる方法を、必ず見つけだしてみせる。 澪は唇を引き結んで立ちあがり、ひとりぶんの朝食の後片づけをした。 出勤すると、澪はさっそく調べものを始めた。 今は、さまざまな働き方がある時代だ。もしかしたら、澪と同じように利益相反に悩んだ人がいるかもしれない。 けれど、同じような例は、なかなか見つからなかった。 ――だったら、自分で考えるしかない。 澪はまず、どんな状態が利益相反にあたるのかを、ひとつひとつ確かめていった。 婚約者の会社に有利な条件で契約を結び、自社に損害を与えること。 自社の機密情報を、相手の会社に漏らすこと。 契約金額や条件を不当に調整したり、相手を特別扱いしたりすること。 どれも、気づかないうちにやってしまいそうなことばかりだった。 一緒に暮らしていれば、つい家で会社の愚痴をこぼすこともある。その何気ない一言に、機密情報がまじっていたら――。 それに、どんなに公正な契約を結んでも、「婚約者の会社だから、そういう条件になったんだよね」と言われてしまいそうで、こわい。 ――やっぱり、グロウセオリーを離れるしかないの?
出勤の時間が迫ったころ、ようやく書斎のドアが開いた。「……おはよう」 仁の声は、いつもより格段に低かった。目の下にはくまが浮かび、顔には疲れがにじんでいる。 書斎にはベッドがない。机に突っ伏して寝ていたのだろう。ほおには、寝あとがくっきりとついていた。 ――ちゃんと、休めてないんじゃないの? 心配が、胸をよぎった。けれど、口から出てきたのは、自分でも驚くほど低い声だった。「おはよう」 向かい合って食卓についても、ふたりともひと言も話さなかった。 澪がちらりと仁を見ると、仁はすっと目をそらした。目すら、合わない。 トーストをかじる音と、壁の時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。 ――あたりまえ、だよね。 仁は、澪のことを思って、あの提案をしてくれたのだ。それなのに、その気持ちを無下にするような言い方をしてしまった。 ――今のうちに、謝ろう。 澪は、膝の上でぎゅっと手を握った。「仁、あの――」 そのとき、仁が椅子から立ちあがった。 食べ終えた皿を手に、仁はキッチンへ向かった。蛇口から水の流れる音がして、食器がカチャカチャと鳴った。 その音だけが、やけに大きく耳に響く。 澪は、続きの言葉を飲みこむしかなかった。 水の音が止まった。仁はコーヒーのポットを手に戻ってくると、空になっていた澪のマグカップに、黙ってコーヒーを注いだ。 ミルクは、ほんの少しだけ。澪の好きな量だった。「会社に行ってくる」 仁はそれだけ言うと、澪に背を向けた。 玄関のドアが閉まる音がしても、澪はその場から動けなかった。 両手で包んだマグカップが、じんわりと温かい。 ――なんで、こんなときまでやさしいの。 立ちのぼる湯気の向こうで、視界が少しだけにじんだ。* マンション
仁は、ただまっすぐに澪の顔を見ていた。 冗談を言うときの、口の端だけで笑う顔ではない。その表情は、真剣そのものだった。「この前の人事からの話って、今後の身の振り方のことだったんじゃないのか?」 まさか仁の口から、その言葉が出るとは思ってもみなかった。澪の背筋が、スッと冷えた。「……どうして、そんなこと言うの?」 澪はテーブルの上で手を組んで、親指をもじもじと動かした。仁の目を、まともに見ていられない。 それから、ふきんを手に取り、テーブルに飛び散ったスープをゆっくりと拭った。とっくにきれいになっているのに、手を止められなかった。「どうしてって、最近、澪の様子がおかしかっただろ? 帰ってきても上の空だし、夜もあんまり眠れてないみたいだったから」 仁は、テーブルの上で指を組んだ。「婚約したタイミングで人事から呼ばれたなら、たぶん、利益相反を指摘されたんじゃないかと思ってな」 ――全部、わかってたんだ。 仁は、なんでもお見通しだった。ほんとうなら、澪はほっとしてもいいはずだった。 それなのに、その事実に、澪の心はなぜかひりついた。「そう……なんだけどさ」 歯切れの悪い言葉しか、返せなかった。けれど仁は、そんな澪にはお構いなしに続けた。「澪には、うちの新商品開発の責任者になってもらいたい。手作りコスメの知識を、存分に活かしてほしいんだ」 澪は、うつむいたまま仁の言葉を聞いていた。「給料に責任者手当をつけるし、経営会議にも参加してもらう。これからは、俺と真壁さん、そして澪の三人で、会社を回していきたいと思ってる」 つまり、経営陣として名を連ねるということだろうか。 澪は、ゆっくりと顔を上げた。 仁の目は、どこまでもまっすぐだった。思いつきで言っているのではないことは、すぐにわかった。きっと、ずっと前から考えていたのだろう。 仁は、澪のことを本気で評価してくれている。コラボの仕事でいっしょに走り、澪の実力をすぐそばで見てきたからこそ、この提
会社から示された選択肢は三つで、回答期限は二週間後だった。 デスクのモニターが暗転して、黒い画面に自分の顔が映りこむ。目に光がなく、どんよりとしている。手入れは一日も欠かしていないのに、肌の色つやまでくすんで見えた。 いちばん手っ取り早くて安心なのは、グロウセオリーを退職し、ダーマコードに移ることだろう。仁はきっと、快く迎え入れてくれる。 もしかしたら、グロウセオリーとの窓口を任せてもらえるかもしれない。この会社のことを知りつくしている澪にとっては、仕事もしやすいはずだ。 ふたつめは、コラボの担当を外れてグロウセオリーに残る道だ。その選択肢が用意されているのは、これまでの仕事を評価してもらえているからだろう。ダーマコードとの仕事に関われなくなるだけで、この会社で働きつづけることはできる。 ――でも、それでいいの? 自分で手がけてきた仕事を手放してまで、ここに残る意味はあるのだろうか。 そして、三つめは、会社を辞めるのでも、ただ残るのでもない道を自分で探し、提案することだ。 そんなものがほんとうにあるのか、澪にはさっぱりわからなかった。「もう……どうしたらいいの」 澪は、両手で頭を抱えた。 考えても考えても、答えは出なかった。 とうとう澪は、昼休みに会社の外へ出て、実家の母に電話をかけた。「お母さん? ちょっと、相談があるんだけど……」『どうしたのよ、珍しいわね。なに? 言ってごらん』 澪は、仁との婚約によって利益相反の問題が生じたことと、会社から三つの道を示されたことを、かいつまんで話した。 すると母は、電話の向こうで、あっけらかんと笑った。『なんだ、簡単じゃない。そんなに真剣に考えなくたって、今の会社を辞めて、仁くんの会社に移ればいいでしょ?』「そう……なんだけど」 たしかに、そうだ。会社を辞めて、仁の会社に移る。それがいちばん楽だ。